menu

nkmn@memo『メモのはしきれ』

生産性のない話やメモをただただしている。 

nkmn@memo

No.1425

03:14

気持ちを細分化する話
https://twitter.com/xfoxyfox/status/1773...

普段していることのひとつ。
これをすると幾分か心がましになる、これは絵にすることもまた同じ。

逆に言えば、これが出来ずにぐちゃぐちゃな時は
言葉もよくなく、心身ともに不味くなる気がするね。

以下、ただのつらつら。

絵のこと、に関しては「線を引いている時間」とか「色を整えている時間」とか
線と色を思うがままに積んでいくことに、原初的な喜びを感じる……
模写は結構嫌いじゃなく、偶然引けた線が綺麗だと喜びがある。
自分がいい!と思うものに近づける、その行為そのものがなによりも嬉しい。

けれど「線を整えている時間が好き」の、反対側には
「時間を使う労力に見合ったものがない」ということへの辛さもある。
これは、何か「より良く生きたい」みたいなエネルギーなのだろうな…とおもう。
絵という行為そのものは、石を積むようなことで、それが一番近いような気がする。

それそのものの価値は「あまりいらない」もの。
人生に重きをおくべきではないと思っていても、やめられないこと。
けれどここまで積んだからには、崩さないでいようと努力している事柄のひとつ。

思えば表現できればなんでもよかったといえばそうで、
私にあった手近なもののひとつが絵だったという、せんない話もある。
今は昔よりも言葉もマシになり、そこに続く見えない繋がりがわかるようになってきた。
少なくとも、随分と生きやすくなったなと、思う。
それこそ昔ほどは絵に頼らずともよくなった。
この武器は、鍛えた分だけ鋭くはなっているけれど……

ただ単に絵を求められるとき、実はちょっと困っている。 のかもしれない。
私が好きな絵を、そうして好いてくれる人に感謝はあれど
そういう対面に向いた時、おそらく届けたいのは気持ちのほうで。
ここではじめて、技量と質と速度に悩まされることになる。

時間や体力というのはどうにも有限で、かければいいというものでもなく
とはいえ精彩を欠くものは望まれないものではないかと考えている時間が非常に苦しい。

絵を描くひとにはそれが伝わると思っているし、
なにかを作るひとならば、なにかそれを越えて伝わるものがあるはずと信じてもいるけれど。
そうと分かったのはやはり言葉の上の積み重ねだし、絵だけではなし得なかったことでもあり。

そういうさまざまなグラデーションの中、生きているなぁと常々おもう。

生きて、描いた分だけ 石が積まれている。
時々崩れ落ちたりしながらも、たしかに此処には積んだだけ、色んな形の石がある。
とじる

1121文字 No.1425いま

Powered by てがろぐ Ver 4.1.0.

Menu

top